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あめゆじゅとてちてけんじゃ

3月22日(日)
大林宣彦監督作品 映画「その日のまえに」 上映会&トークショー
@臼杵市民会館

友人が重松清の原作を読んで感動したとのことより、観に行く。
原作は読んでないし、過去の大林作品も全く観てない、ほんとの初めましてやったけど、めっちゃよかった!!これはマストです!!傑作です!!
これを新聞記事風にまとめて見ようかと思い、記事のフォーマットを参考にとネットで調べていると↓

もっと臼杵を好きになって 大林監督語る (大分合同新聞 Oita Press)

こんなんやないやろ~。ピントがずれてる。
僕は大林監督の話から『古里』と『平和』の二つのメッセージを感じた。「古里を大切に」なんて話ならそこらの誰にでもできるわけで、それを取り上げるんじゃなくて、監督と子どもたちのコミュニケーションとその後に続く「平和」への思いを取り上げてほしかった。


やりとりの簡単な流れ(セリフは大体やけど)

開場~本編上映までに、臼杵の小中学生が撮った古里の写真、それから感じたことが、スライドショーで流れる。

上映前に監督、女優が出てきて、あいさつ。

小学生男子2人から花束贈呈。

監督「古里の写真を撮ってみてどうだった?」

小学生「臼杵のいろんなとこを知れてよかった。楽しかった。」
   「何を撮っていいか分からなかった。」

監督「古里って普段見慣れていて、特別に思えるものはないかもしれないけど、よく見てみるといいところがいっぱいあるんだよ。」


ここまでが新聞で取り上げられてるところ。
でも、肝心なところはそこじゃない。
監督の最後の質問。

監督「君たちは、臼杵がどんな町になったらいいと思う?」

小学生「え~。う~ん・・・。」
質問が難しかったのか、もじもじして、黙り込む二人の小学生。
しばらく無言の時間が流れる。

普通のステージ上で進行をするおとなであれば、ヒントを与えたり、「難しかったかな」とかいってうまくまとめて『その場を収める』だろう。

しかし、監督は小学生にマイクを預けて、「言葉にしなきゃいけないよ」と待つ。

そこまでされたら、小学生も何かを言わなきゃ終わらないから、絞り出す。

小学生「けんかがなく、みんなが楽しくすごせる町になればいい」
   「戦争がない平和な臼杵になればいい」
   
僕を含めて、おそらく会場にいたほとんどの人が「あぁ、(監督の求める答えとは違う)的外れなこと言っちゃったなぁ」とか思ったかもしれない。だって、このローカルな臼杵と戦争、平和なんて言葉は結びつかない。監督の模範解答が用意されてたのか分からないけど、僕自身も答えられず、考えることを逃げた(間違いたくなかったから)。

それに対して

監督「そう、言葉にすることが大切。言葉にすればそれが決意になる。今君たちは臼杵を楽しく平和な古里にしたいって決意を言ったんだよ。じゃぁ、どうすればそういう町になるかな?」

小学生「う~ん、分からない」

監督「そう、『分からない』って素直に言えることも大切。『分からない』でもいい。でも、そのままにしないでそれをずっと考え続けなきゃいけないよ。君たちはこれからの世の中、未来を作る『未来人』なんだから。」

トークショーの前半はここで終了。

前述の記事に関して、『有名な監督が大分・臼杵を好き』っていう、地元自慢に満足するんやなくて、『大分・臼杵を好きな有名な監督が臼杵の私たち、未来をつくるこどもたちのために、前向きなメッセージを送ってくれた』みたいな、もっと特別な、もっと広い視野の思いを記事にしてほしかったなぁと感じた。
かといって、地域密着のローカル紙やし、新聞の形でまとめるとこうなってしまうんかもしれんけど、体感した監督のすごさ(穏やかだけど信仰の対象となりえるようなオーラ)を伝えきれてないのが、悔しかった。

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映画のストーリーを公式サイトより引用↓
『余命=その日を宣告された妻と、その夫が、「その日」までを一所懸命生きる姿と、そこに関わる人びとの、切なくもけなげな物語が、最高のスタッフ・キャストでついに映画化。
「死」をドラマチックに描くのではなく、誰にも普通に訪れる「その日」として厳しく見つめながら、その恐れや悲しみを軽やかに飛び越える』

映画の中でのチェロの音色が効果的に使われてることやテーマに『死』があるのが、『おくりびと』と似てる気もする。
でも、今思うとおくりびとは「来るぞ、来るぞ、ぶわー!」っていう『ドラマチック』な感動やった気がするけど、こっちは会話の中の一言、仕草の意味にハッとさせられて、切なくなってぶわーって来る。でも、去る者も残される者も、悲しみに浸ってるだけじゃいけないから、遊び心のある象徴が所々で出てきたり、場面が大きく変わったりする。監督や脚本の狙いがそうだとしても、観客は「もうちょっと浸らせて」気分になるし、原作を読んだファンからすると「原作の雰囲気ぶちこわし」って気分になるのかも。それは監督の原作の人気に乗っかった作品や、お涙頂戴のヒット映画にはしたくなかったという思いからだろうけど、泣かせる狙いでなくても、音楽も含めてこみあげてくる映画だった。

気になったのは、夫の南ちゃんのセリフが棒読みだったこと。
いくらなんでも、もうちょい演技できるやろうと思って観てたけど、ネットで映画について調べてみると、
夫や周りの人物のセリフが棒読みでしゃべることで、死にゆく者(妻)のいのちの輝き、躍動を際立たせる狙いがあるのだとか。なるほど、そこまで感じ取れなかった。

印象的なシーンがいくつもあるのですが、
余命わずかと分かって、それを二人の息子に教えるかどうかのシーン。

夫「やっぱり、こどもたちにも教えるべきだよ!残された時間が限られてるなら、その方が家族みんなでその時間を大事にすごせるに決まってる。」

妻「私はね、こどもたちには今まで通り笑顔でいてほしいの。もう良くならないって知ったら…。彼らの希望を奪うことは、わたしたちであっても許されないと思うの。だから病院にも連れてこないでね。『最後までママはがんばったんだよ』って言ってくれればいいから。」

真実を知って絶望に暮れるより、知らないでわずかでも希望を持てる方がいいのか。最後だと分かっていたなら、余すところなく愛を思いを伝え合えるのか。
自分やったら、どっちやろう。


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上映後の監督のお話

映画には嘘があります。
この映画はリアリズムではない。『ウソから出たマコト』を描いた映画です。
現実では、昔の風景や人物が見えたり、死んだ人が帰ってきたりしません。
そんなのがあればそれは『ウソ』です。
でも、ウソを信じた方が幸せになれることもあります。

今の時代、平和っていうのが一番の『ウソ』です。
『ウソ』っていうのは『夢』と置き換えることができます。

最近は何もかもがホントでなければならないという風潮がありますが、
ホントのことだけで映画を作ってもホントでしかない。ウソでしかマコトは描けません。

お葬式のときの遺影がみんなどうして胸を張って笑顔の写真なのかと疑問に思っていました。
笑顔で死んでいくというのは、ウソです。死にたくないと悲しみ、苦しみ、弱っていくのがホントです。
しかし、笑って死にたいと夢みること、残された時間を懸命に生きようとすること(=ウソ)が、ウソから出たマコトになって、誇りをもって最後のその日を迎えることができるのかもしれません。
私はそういう真の人間のかしこさや美しさを撮りたい。

ホントの現実の世界は平和ではありません。
でも、私はウソを信じ、ウソから出たマコトで平和になる世界を信じたい。

私は嘘のある映画を撮りたい。


その日のまえに
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2009-03-28 17:42 | だって純情どうしよう | Comment(0) | Trackback(0)
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